由良高リレー32

主を失った館は静まり返り、どこか陰鬱な空気が漂っていた。無数の人形たちは、虚ろな瞳で侵入者たちを眺めている。その目に見つめられながら、高遠は前を歩く由良間の背を見つめていた。その瞳も又、どこか虚ろでガラス玉のようであった。
SDカードの中身……目の前で破棄された物の下書きか、そこに書かれていた内容は高遠が見たものとどれ程違いがあったのだろうか。しかしこの館に、そして子供部屋に向かう、そこに答えがあるような気がした。
それでいながら前を歩く由良間の背中は、警戒心を感じさせないいつも通りの自然な姿だ。事務所のソファや、自宅でくつろいでいる時と変わらず、リラックスした様子を見せている。高遠と目を合わせても、怯えるようなことはなかった。
目的の子供部屋にたどり着くと、由良間は中をぐるりと見回してふんと鼻を鳴らした。
「子供もいないのに部屋だけ作ってるとか、本当変わってるぜ」
子供部屋の窓際には子供用の小さなベッドと、その隣に小さなキャビネットがあった。キャビネットの上には少年の姿をした人形が二体置かれている。何かの拍子に動いたのかキャビネットに腰かけている人形の膝の上に、もう片方の人形がうつ伏せになって倒れていた。
他にも小さなソファや机があり、机の上にはおままごとにでも使いそうな、子供の手に合わせたサイズのティーセットがある。小さなカップの中には薄らと埃が溜まり、暫く人の手が入っていない様子が見受けられた。
主人の失踪後も契約内なのか、それとも忠義からか執事としての仕事を果たしているようだったが、どうやらこの部屋だけは例外のようだ。
「ほら、見ろよこれ、クローゼットの中。服までちゃんと入れてやがる」
クローゼットの中にはレースのついたワンピースや、ドレスがぎっしりと詰まっていた。それは幼い少女のサイズの物で、一度も袖を通されていないのか皺一つない。ドレスの山に隠れ、少年の服もいくつか集められている。少女の物に比べれば十数着程度ではあったが、愛らしい半ズボンやシャツがハンガーにかけられていた。
服のみならず、中には箱に入った靴や鞄が無数にあった。そのどれもが使用された形跡が一切なく、物によってはビニールに包まれたままで放置されているものもあった。
「凄い量ですね……」
「ガキのもんばっかりか……量多すぎだろ」
一朝一夕に集まるものではない、そこには長い年月と強い執着を感じさせた。公式発表では彼女に婚姻歴は無く、この館に客人以外の子供が泊まった形跡はない。しかしこれほどの執着心で子供の物を集めるのには、何か理由があるのではないだろうか。例えば……高遠の母、近宮玲子に長年共に仕事をしていた弟子さえも知らぬ隠し子が居たように、秘密の子供が居ても何らおかしなことは無いだろう。
渡せない服や持ち物を、この部屋に隠している……その可能性を考えながら、高遠は直感的にこれらの服が、特定の個人……隠し子なんてものの為に集められたのではないと感じていた。男女二人分にしては偏りがあること、一定の年齢の服だけが大量にあることから、成長する子供に対して一年や二年で集めたものではないと判断した。
寧ろこれは……「子供を産めない」からこそ、なのではないだろうか。それが身体的なものか精神的な理由であるのかはわからないが、望んだ子供が得られない屈託を人形を作ることで解消しているのかもしれない。それは歪んだ母性の発露だ。
我が子として作り愛した人形の内の一つ、オフィーリアは由良間の手により命を与えられそして壊された。その報復として、彼女は由良間の命を狙い、婿として共に冷たい水に流し彼岸へと旅立たせようとしていた。
由良間の足に履かせていた赤いヒールは、洗脳の道具であり、同時に拘束具だ。纏足にも通じ、歩くことを禁じ自由意志を奪っている。彼に履かせることにより支配し、うわべだけの綺麗な人形として殺す。そこには由良間の人間性など一顧だにしていない。きっと彼が生み出すマジックでさえも、あの女にとっては「自分の人形」の為の物でしかない。
幼い頃からマジックに親しみ、近宮玲子の息子として恥じぬ腕前を持つが故に、皮肉にも高遠は誰よりも由良間の腕を認めていた。彼のマジックは、人形に命を吹き込む。あの魔法の手で操れば、たちまち人々は人形に心が吹き込まれたかのように錯覚した。醜いマリオネットでさえも、彼は愉快な道化師へと変えてしまう。
その手を、自分以外に奪われるのは業腹だった。
あの時、高遠には人形師を殺さないでいる選択肢もあった。非力な女相手だ、由良間を正気に戻せば力づくで抵抗することも、逃げることも簡単だ。館内には二人以外にも客が大勢いた、助けを呼び後は警察に任せることも出来た。その後の脅迫してきた女や、南島に関しても同じことが言える。そうわかっていても、高遠は常に彼女たちに死を与えて来た。高遠から由良間を奪おうとする人間全てに、等しく、まるで罰を与える様にナイフを振りかざした。
それが、由良間自身であったとしても、結論は変わらないのだろう。
暫くクローゼットの中を興味深そうに見ていた由良間は、やがて飽きたのか、クローゼットの扉を開けたまま部屋の中を横切ると窓へと歩み寄った。淡い花柄のカーテンを閉め、彼は反対側にある鏡――SDカードに書かれていた件の物だ。壁にはめられた鏡はシンプルな物で、愛らしい部屋の雰囲気から少しばかり逸脱している。その鏡へ近づき、つんと細く長い指で鏡面を押した。
「高遠、電気を消せ」
「えっ、あっはい」
電気を消すと由良間は、手で目元に影を作り鏡の向こう側を覗き込んだ。
「やっぱりな」
「何がですか?」
マジックミラーだと言いたいのだろう、そう高遠は予想していた。マジックミラーには、幾つか特徴がある。壁の中に埋められていることや、表面鏡であること、鏡面側を暗くしペンライトやスポットライトで鏡を照らした場合向こう側が見えたり、または由良間の様に目の周りを手で覆い光を遮り覗き込んだ際向こう側が見えることだ。
鏡を調べろと書かれていた時点で、マジックミラーである可能性を考えていた。しかしそんな高遠の予測を裏切り、鏡から顔を離した由良間は吐き捨てる様にこう口にした。
「アイツ、俺の命を狙ってやがった」
それは、誰の事だ。人形師か、それとも別れた女か、南島か……南島に関してはこの館には関係なく、また別れた女はただ脅迫してきただけだったが、加害者になろうとしていた点では同じだ。
「えっと……由良間さん、アイツって誰の事ですか?」
「クソジジイさ」
ふんと鼻を鳴らすと、由良間は鏡の周囲を慎重に探りだした。やがてスウィッチでも見つけたのか、カチリと小さな音がしたかと思うと、ゆっくりと鏡が動きだした。マジックミラーと隠し扉を兼ねていたようだ。
「あの老いぼれ野郎の罠だったってことだ」
隠し扉の向こう側には等間隔に明かりが灯されている。以前他の部屋から行った隠し通路は暗闇に閉ざされていた。開いた扉を更に観察し、由良間はキャビネットとソファを噛ませて固定した。
「由良間さん何をしているんですか?」
「見てわかんねぇのかよ、閉じねぇようにしてんの。こっちの部屋からは開くことは出来るみたいだが、通路側からは開かないようになってるからな……」
「少し見ただけでわかるんですか?」
「あーまぁ……昔見たことがあるっつーか」
軽く口ごもり視線をそらしているが、続きを促すように見つめていると小さく舌打ちをして彼は言った。
「弟子時代にさ、近宮先生が似たような館にトリック仕込んでたのとか見た事あるんだよ。その時見たのはここじゃあ無かったから、すっかり忘れていたが、いつだったかこういう奇妙な建物の話をいくつか聞いていたんだ」
「近宮先生が、そんな事を……」
「まぁあの人が作ったのは、ちょっとしトリックを使った迷路程度だったが……元々は親しくしていた男が、そういうのに関わっていたから興味があったんだってよ」
親しくしていた男性……それは高遠の養父ではないだろう、彼は建物に対して興味を持っていなかった。彼が遺した日記や手帳にも、そのような事は一文字も書かれておらず、無趣味な男だった。
「その男は、二十年くらい前に死んだとか死んでないとか、言ってたかな……」
「建築家だったんですか?」
「さぁ?どうだろう。マジックのパトロンだったのか、お前が言う通り建築家だったのかは聞いたことねぇわ……」
興味なかったしとこぼす姿は由良間らしいと言える。だがその様子が何とも憎らしい、もしかすればその親しくしていた男は……その男こそが、高遠遙一の本当の父親なのかもしれない。
「で、だ。この館もよ、そいつが関わった様子があるってんで、一度見に来たことがあるらしい。そん時は団長か夕海さんか、それか左近寺か……まぁ兎も角俺以外の奴がついていったから、話にだけ聞いてすっかり忘れていた」
背を向けながら、普段は厭う師との過去を口にする珍しい姿に、もどかしさを感じ唇を軽く噛んだ。
「ここに来る前に何も言われなかったのは、他の奴らも忘れていたか、当時は持ち主が別人だったかのどっちかだろうけどよ。まっそれはどうでもいい、重要なのはここが特殊な立地に建てられた館だってことだな」
「山の上にある以外にですか?」
「ははは、そんなのどこにでもあるだろ?大抵変な館は山の上にあるもんだ。金持ち共は山の上にでっかい屋敷を作っては、下界の物を見下してんのさ。ここはそれだけじゃあない、屋敷の下に地獄を飼ってるのさ」
地獄と呟けば、やっと由良間は高遠を振り返った。
「地獄ってのは、ちょっと言い過ぎかもな。この館の下には鍾乳洞があるんだ。そこまで行くのに通路を随分と歩く必要があるらしいが、その鍾乳洞には地面や天井から無数の槍が突き出ているような、まるで針山地獄みたいな姿だってよ」
針山地獄、それは中学の頃だったか、美術館で地獄絵図の一つとして見た記憶がある。華道で使う剣山のような、鋭利な針が罪人を串刺しにしていた。まるでルーマニアのヴラド三世の如く残虐な様子に、その絵を描いた人物の精神状態を思わずにはいられなかった。
「それほど恐ろしい鍾乳洞なんですね」
「いや、鍾乳洞自体は別にただの空間だ。別に毒があるわけでもないし、入った途端に串刺しにされるわけでもない。問題はそこに至るまでの道だとよ。入り組んだ迷路になっていて、上ったり下がったり、右に曲がったかと思いきや左に曲がってと、方向感覚が狂うように作られている。一度入ればアリアドネの糸でもない限り、侵入者は哀れ迷い人になり果てるのだとよ」
糸は主人の道案内か。
「その鍾乳洞は、子宮をイメージしているだとか、そんな蘊蓄も聞かされたが、俺にはさっぱり意味が解らなかったわ。お前わかる?何で鍾乳洞や洞窟が子宮のイメージになるの?」
「えっ、さぁ……僕にもわかりません」
「だよなぁ」
洞窟が子宮のイメージとなるのは、地母神信仰から来るものである。大いなる恵みをもたらす大地の空洞……それはまさしく神の子宮だった。あの女が由良間を流そうとしていた川は、鍾乳洞へと繋がっているのだろう。そうして神の子宮にたどり着いた男は、女と結ばれ更なる命となる。そんな姿をあの女は想像していたのだろうか。
「迷宮を抜けてやっと出口だと思った先が鍾乳洞ってのは、まぁ嫌なもんだよな。足場もなく進むのは難しい、しかし道を戻ろうにもどう行けばいいのかわからない。更には本来入った場所は中からは開けられない……どこかに抜け出すヒントはあるだろうが、それを見つけ出すことは侵入者には絶対出来ないように作られているってよ」
確かにここであれば、死体を隠すのは容易だろう。鏡の通路を開き、高遠の背を押して扉を閉めるだけでそれが成せる。ナイフを振りかぶり殺す必要さえもない、臆病な由良間にはぴったりの方法だ。しかし由良間は、これら全てを「クソジジイ」の罠だと言った。
「……由良間さん、あの」
あの男の罠とはなんだったのか、そう尋ねる前に由良間は高遠の言葉を遮り口を開いた。
「俺をここに閉じ込めるか?」
笑いながら、由良間は続ける。
「それとも俺が、お前をここに閉じ込めてやろうか」
不思議とその言葉は甘い囁きの様に、高遠の鼓膜を震わせた。愛を囁く様に、死出の旅への誘いを口にする。ベッドに誘う時のような、淫靡な空気を纏わせながら、男は高遠を口説いていた。
「誰にも知られず、誰にも気づかれず。何の縛りもない、二人だけの世界だ」
そこには倫理もなく、過去も未来もない、ただあるのは目の前にいる男だけだ。水はあっても食料が無く、あるのはただ無情な石ばかりである、早晩命を落とすことになるだろう。死の苦しみが待ち受けているが、それでいながら生の苦しみからは放たれる。
愛が為に落ちる甘やかな地獄だ、そこに二人で落ちるのも悪くはないだろうと、男は誘った。由良間の言葉に応えるが如く、通路の灯りがちらちらと高遠の目をさす。この灯りは、鏡が動かされる前から灯されていた……そうでなければ、マジックミラー越しに向こう側の様子が見えることは無い。
この灯はウィル・オ・ウィスプだ、人を迷わせ誘い、破滅へ導く。その灯りに、由良間は惑わされたのだろうか。
「お前はいつだって、俺の為に汚濁をも飲み込むだなんて言う。ならそんなもんが必要ない世界だったら、どんなに幸福だろうな?」
由良間の言葉は、メフィストフェレスが語る誘惑のように魅力的だった。ただ彼に恋をしているだけの人間であれば、その言葉に一も二もなく縋りついただろう。この世から彼を奪い取る方法の一つだ、それを彼自身がちらつかせている。
彼を殺すために自らの命も賭ける、そんな分の悪い賭けは好みではない。そうしなければ彼を独占できないだなんて思うことも無い。蜘蛛の糸の様に垂らされた誘惑に縋りつくなんて、惨めなことをするつもりは無かった。
「ショーは……ショーはどうするんですか?」
幻想魔術団の花形、ノーブル由良間が居なくなればその知名度は極端に下がるだろう。国内のみならず、国外にも彼の実力は知られている。多くの人間が、この男のショーを望んでいる。高遠にとってそれは疎ましくも認めざるをえない現実だ。
「お前さぁ、このタイミングでそんな事言うわけ?」
空気読めよなぁと苦笑すると、由良間は鏡を固定していたキャビネットを足でのけた。僅かに鏡が動き、小さなソファが完全に閉まりきるのを阻むのみとなった。
「ですが、ショーは大切にしないと……!団長にも怒られてしまいますよ」
「死んでも怒られるとか、団長は鬼かよ!ったくさーもっとこー、あるじゃん?ノリ悪いなぁ……」
ぶつくさと文句を言いながら、次いで由良間はソファを動かした。支えを失った鏡は、ゆっくりと元の位置へと戻る。地獄への扉は閉ざされたのだ。
「あの……もしかして、僕はからかわれたんでしょうか?」
小さなソファの背に腰かけると、由良間は煙草を取り出して火をつけた。深く煙を吸い込み、笑い声と共に白い息を吐く。
「当然だろ、俺がこんなくっそ辛気臭い場所で死ぬわけねーよ」
口に煙草をはさみながら、由良間は鏡を三度ノックする。
「それも、心中とか?ねーわ。そういう死に方ってよ、もっと陰気なやつがするもんだろ?この世に絶望した—とか、ぼんやりとした不安にかられたーとか、別に俺死にたいとか望むほど、絶望してねーし」
「それはそうですね」
この男にとって、今こそがこの世の春だ。多くの舞台、多くのファンが彼を待ち望んでいる。自ら死へと向かう姿など、あり得るはずもない。
「死ぬときは、こんな晴れやかな……スペインの太陽に照らされてだとか、舞台の上でって決めてるのさ。拍手に見送られながらとかだったら最高だろう」
「舞台の上は難しいんじゃ……?」
舞台の上で亡くなるマジシャンは少なくない。誰もがというわけでは無いが、多くのマジシャンやその助手たちが命の花を散らしている。その殆どがトリックのミスから来る事故だ。炎や水を操るマジックや、高所での作業が必要なもの、ほんの些細なミスや過信が彼らの命を奪ってきた。
もし舞台の上で死ぬとなれば、それはショーの失敗を意味する。由良間はそんなミスを起こさないだろう、そんな意図をこめて尋ねれば、以外にも男は苦笑して見せた。
「さぁて……どうだか」
「……由良間さん、それで忘れ物ってなんだったんですか?」
吸い終わった煙草を携帯灰皿に入れ、立ち上がった由良間に尋ねる。
「あん?あぁ……忘れ物……そうか、そんなこと言ったか俺」
「はい、この鏡……の先?にあるのかな……とか思ってたんですが」
「忘れ物……物は物だし、ここにあってここにねェもんを確認しに来たってところだ。さっき言っただろ、あのクソジジイのこと。アイツからのメッセージにここの事が書かれていたんだ」
高遠を殺すための手段として、あの男が由良間に示したものだ。しかしその唯一とも言える手段は、由良間の手で持って閉ざされた。背に隠していたナイフを指先で確認するようになぞりながら、高遠は由良間の真意を探る。
「鍾乳洞があると?」
「いいや、鏡を探れってさ。それだけ、間違って入っちまったら、よっぽど運がよくないとそのまんま迷宮行きだってのによ」
しかし由良間は事前にこの館の知識を持っていた……偶然か、それとも運命的にか。近宮玲子との時間が、彼の足を止めたのだ。
「アイツからのメッセージは、ここの鏡だけじゃあねぇ。お前に対しても……すっげぇ胡散臭ぇ話ばっかりずらずらと並べやがってよ。気味悪いったらありゃしねぇ」
根拠のない高遠の罪……それは実際真実ではあるが、同時に証拠のない言いがかりでもある。彼を前にして嘘だと縋りついても構わなかったが、真実だと認めた際どう動くのかが気になって認めたものだ。
「……でも僕は……実際にあの人を……」
「まぁ、それはそれ、これはこれってやつだ。アイツの書いているものは、全部が全部正しい物じゃなかった。お前だって、マジックに関わってんだからわかるだろ?人を欺くにはコツがある、しかつめらしい文面に嘘を混ぜこみゃもっともらしく見えるもんさ」
真実を土壌にして、偽りの花が咲く。言うと由良間は、弄んでいたジッポライターを、手の中から消した。
あの文面のどこを真実とし、どこを偽りとしたのか……いやわかっている。この男は、高遠を近宮玲子の息子として認めなかったのだ。長年没交渉だったあの男よりも、今肌を重ねる恋人を信じたのだ。
大いなる誤解、真実から遠のいた理解は、高遠にとって都合の良いものだった。彼に真実を知られるよりも、あの没落した資産家が詭弁やだと思われる方が良い。だというのに、素直に喜べなかった。
寧ろ……この男にこそ、真実を知ってもらいたかった。近宮玲子の息子なのだと、側にいるものこそが一番の敵だと。そうしてただ一人、偉大なマジシャン近宮玲子の「命を与えるマジック」の正当なる後継者になりたかった。そう願うのは、数年前までのただ純粋にマジックを愛していた頃の高遠だろう。彼に認められ、そうして……そうして……?あり得ない未来だ。
時が止まることは無い、どれほど目の前の男が美しい笑みを浮かべようと、どれほど素晴らしいマジックを見せようとも。死した師のマジック、それはこの男を死へと誘うものだ。それを知らず、理解せず、ただ笑っている。そして時は決して戻らない。どれ程の後悔に塗れようとも、嘆きや悲しみ、絶望がそこにあろうとも、そこに美醜などは関係ないのだ。
無知で厚顔な男は、時として誰よりも残酷だ。由良間が目の前にいる限り、憎悪は高遠の胸の中を甘く擽るのだ。果てしない憎悪は、同時に深い恋情を呼び起こす。彼を憎めば憎むほどに恋心は育ち、愛せば愛すほどに殺意は尖っていく。
背に隠していたナイフは、既に服の中へと戻していた。誤解しているのであれば、させておこう、だが決してこの殺意が無くなることは無い。
辛気臭い場所での死を望まないのであれば、別の場所で……誰よりもきっと美しく……必ず私は貴方を殺します。由良間さん、絶対に貴方を殺す……誰にもそれを邪魔させはしない。心に刻んだ殺意を隠しながら、高遠は由良間に微笑みかけた。



SDカードは不和の元、不信の種だった。
あの男はその種を潜ませて、由良間の破滅を狙っていた。カードに記されていた物には、多くの真実と幾ばくかの偽りがあった。人形師の失踪を死へとつなげ、それが高遠が行ったものだと言う推理は正しく、警察でさえもたどり着かない真実に男は想像だけで辿りついた。
もしかすれば死体をこの館まで確認しに来たのかもしれないし、由良間にはわからない何らかの方法をとった可能性もある。執事や使用人が、あの男の手の者であった可能性……は低いだろうが無くもない。
だがそれでも男の言葉はあくまでも予測、想像に過ぎない。いっそ妄想であると言っても良い。直接男から、高遠が人殺しだの、近宮玲子の息子だのと言われれば、Mr.への嫌悪感を除いても信じるはずが無かった。言葉の信憑性を高めるために、そして由良間と接点を持つために命を賭したのだと考えることも出来るだろう、しかしあの男を知る由良間は決してそれが真実などではないと確信していた。
そもそもあの男は、高遠が危険だと忠告しているくせに、人形師の女の危険性を全く伝えてはこなかった。彼女が由良間に目を付けたのは、何年も前……彼と交友関係を持っていた時からだと言う。その頃に一度としてあの女の話をしたことは無かった。
この館へ来てからという物、由良間は幾つもの事件に巻き込まれた。もしかすれば由良間が知る以上の死が、そこにあるのかもしれない。その中心にいるのは自分であり、高遠である。だがそれらの死は、この館に来なければ、そしてあの男の誘い……遺言もまた誘いである、に従わなければ関わることが無かったものばかりだ。
初めてこの館に来た時は、気が進まないただの出張マジックショーだった。
魔術団に所属しているが、常に魔術団が主催している仕事ばかりをしているわけでは無い。海外や地方で連日となれば、魔術団の名で遠征もするが、都内や短時間のもの、小規模なパーティーなどは一人で行う。仲間と共にショーがしたいだなんて、体が痒くなるようなことを考えているのではない。単独マジックの場合、客の相手は由良間がしなければならない。マジックを見せる時のトークはいくらだってして見せる、しかしそれ以外の物が面倒でならなかったのだ。
将来的に独立を視野に入れているのであれば、単独マジックショーはパトロン探しにも「丁度良い」のだが、過去にクソッタレなジジイに弄ばれ痛い目を見た経験から、自らの才能を「金」などで弄ばれることに嫌気がさしていた。
マジックの価値を、由良間の努力の一切を知らない相手に、安く見られるだなんて怖気が走る。長年の研鑽を、そのように侮辱されるのは我慢ならない。独立をすれば、金の為にそんな奴らの相手をしなければならなくなる。それくらいであれば団に所属し続ける方が、断然マシだった。
幻想魔術団は皆マジックを嗜んでいる。そして団長の山神は、誰よりも由良間の実力を理解していた。彼は幻想魔術団を何よりも大切にしている。その為団の知名度を上げている由良間を、ある程度自由にさせていた。彼の魔術団への執着は、由良間にとって安心を与えるものだった。
慣れた仲間たち……その「集団」に居れば、決して孤独になることは無い。それは、捨てられることへの恐怖であったのかもしれない。
団を大切にする山神は、決して由良間を捨てることは無い。才能を示し、実力を見せ続ければ、彼はそれに応えてくれる。実に都合のいい関係だった。そして秘密の共有者として、互いに足を引っ張ることも無い。彼に、そしてその妻の夕海に危機感を覚えたところは無かった。あの山神夫婦に関しては、一種の信頼を持っていたのだ。
その信頼は、あのMr.には一度として感じたことの無い類の物だった。
才能の保護者だとか、支援家だとか、自らを美辞麗句で飾りたがるあの男は、実際はただの監視者であり、支配欲に満ちた醜悪な男だった。不器用で創造力が無い男は、自らの手で奇跡を起こすことが出来ず、何一つとして美しい物を作り出せない。絵や小説、舞台に映画、作曲や詩、それら以外にも、数多ある創造的な物の一切の才能が無く、ただ斜に構えて批判するしか能がない男だった。
自らに持ちえないものを貪欲に集め、若い才能を傷つけ支配することに執心していた。狡猾なその姿に、愚かにも過去の由良間は惑わされていた。同じように騙され傷つけられ捨てられた若い才能は、枚挙に暇がない。そうして人を狂わせ、破滅させながら、自らの財産さえも守ることが出来ない、そんな下らない男だった。
あの男が自殺し、長らく縁が無かった由良間に遺産を残していた……その話を聞いた時、嫌な予感しかしなかった。南島の存在や、他の遺産相続人やその家族について知っていたわけでは無い。しかしあの男が、誰かの為に行動するなど到底思えなかった。
遺産として残された絵……そこから辿りついた「ドリアングレイの肖像」はイギリス文学作家オスカーワイルドの作品だ。由良間にとっては縁遠い……題名や内容をわずかながら覚えていたのが奇跡とも言えるようなものだった。
あの男は由良間が絵を裂くことを予測して、鍵を隠した。しかしその鍵に由良間が興味を抱くだろうか?更にそこからオスカーワイルドに繋げて謎を解くと?あの男の中では美しさ以外誇ることが無く、師である近宮への繋ぎも「他人」の手を借りないと出来ない無能者が?そんなはずがない。あの男は、由良間が高遠と共に遺言状を聞きに行くのだと予測していた。
当然あのSDカードを由良間と共に見るだろうと考えて居たはずだ。文中では由良間だけで見ろだの、高遠が見た場合は云々としおらしくも描いてあるが、そのくせつらつらと書かれているのは高遠を危険視したもの、悍ましい殺人教唆だ。それは同時に高遠の殺意を擽るための物だった。
善性の守り人を自称する傲慢な男が遺した物は、忠告などではない。諍いの種、人々の中に眠る不信や疑念、敵対心や恐怖心という獣に与える餌だ。
餌に喰いついた結果、待っているのは破滅だ。おそらく他の遺産相続人たちにも、似たようなものが渡されたのだろう。人形師やその館のような「便利な場所」も用意されていた可能性がある。そしてそれらを使った、もしくは使おうとした結果、彼らは一様に「姿を消した」のだ。
南島やあの男の館に集まった人物たちは、全員が処刑人なのだろう。彼らが財産に目が眩んだのか、それとも何かの恨み妬み嫉みがあったのかは知らない。しかしその心の隙を突かれ、狡猾な男に利用され、そしていずれその罪に身を滅ぼす事になる。
狡猾な男は、独占欲から手に入れた才能が認めた以上の才を手に入れること、そして何よりも他人の物になることを嫌っていた。若者たちの才能が花開き、人々から称賛を受ける時、男の手に残るものは何もない。そんな屈辱に耐えられる男ではなかった。
SDカードを見た時、由良間の脳裏に浮かんだのは男への疑念と、高遠への疑問だった。彼が近宮玲子の息子であり、幻想魔術団へ何らかの感情を抱いているのか……高遠に殺人を犯したのかと尋ねたとき、あれ程簡単に認めるとは思わず、内心驚天動地の気持ちではあった。しかし由良間の為に殺人を犯す、そんな愚かさに胸を打たれていた。
多くの死、そして過去との決別の為、由良間は高遠を伴いこの館へと赴いた。人の死臭が纏わりついている呪われた館だ。
館の中に入るまで、Mr.に対しては疑念のみであり、高遠の正体に関しては半信半疑だった。近宮玲子に子供がいたと言う話は聞いた事が無い。始めは高遠を睡眠薬で眠らせている間にでも、館の仕掛けを確認しようと思っていた。しかし彼の告白を聞いて考えが変わったのだ。
もし万が一、高遠が近宮玲子の子供であれば、そして殺意を隠しながら由良間の恋人でいるというのであれば……そうでなければいいと願いながら、頭の片隅でそれが真実だと確信していた。
死骨ヶ原で命を落とした近宮玲子は、とても素晴らしい才能の持ち主だった。舞台に愛され、観客に愛され、同業者には蛇蝎の如く嫌われていた。愛情深い反面、冷酷で残酷な女だった。敵と認めた相手に対する残酷さに、由良間は常に恐れを抱いていた。
彼女が死んでから何年もたつが、幻想魔術団は未だにその死から逃れられないでいる。彼女の死の現場が幾度となく脳裏を過り、いつしか師の名前はタブーになっていた。残念なことに、幻想魔術団の面々は、彼女ほどの度胸を持ち合わせていない、そんな臆病者の集まりなのだ。
臆病者の由良間は、子供部屋の壁にはめられた鏡を見た時、強い恐怖を感じた。過去に近宮玲子の話していた「地獄の館」の事を思い出したからか、Mr.の真意に気付いたからか、それとも鏡にうつった高遠の姿……ナイフを後ろ手に隠すその姿を目にし、近宮玲子の影を見たからだろうか。だが恐怖は一転して、強い興奮を彼にもたらした。
酷く愉快だった。何度も肌を重ねた男の本当の姿が、そこにあった。未だ十代の若者の幼さが抜けきらず、残酷で孤独で、一種奇妙な無垢さを見せる高遠遙一の姿だ。殺意と愛を秤にかけ、理性と衝動の狭間で由良間の隙を狙っている。その二面性が由良間を惹きつけてやまなかった。
少しでも由良間が、高遠へ殺意を見せれば、そのナイフは振りかぶられる。この警戒心から見るに、高遠はSDカードの中身を見たのだろう。見て尚且つ由良間に抱かれ、大人しくついてくる……偽物を渡せばいいのにそれもせず、言い繕うことさえしない。あの男も高遠もどちらも由良間を見くびっている。何年も高遠の正体に気付かないから、そう思われても仕方のない事だろうが……それでも由良間は名の知れたマジシャンなのだ、心を欺き人を惑わすには並の人間よりも長けていた。
偽りは真実の中でこそ信憑性を持つ。由良間の誤解を、高遠は疑うことなく受け入れた。少しばかり不満を持っているようだったが、ここで殺しあいになるよりかはましだろう。高遠とは違い、由良間はどうやっても人殺しにはなれない。投げたナイフは、きっと空中でその刃を柄の中に納めてしまう。身を守るため、利益の為に彼を殺そうとすれば、冷静さを失い高遠に殺されるのがオチだ。由良間は殺されるのも殺すのも望んでいなかった。
鏡の扉が閉まりきったのを見届け、由良間は高遠へ口を開いた。
「高遠、賭けをしようか?」
「賭け……ですか?」
不思議そうに首を傾げ瞬きをする高遠に、違和感はない。内心に滾らせている殺意は、微塵も感じられない。真意を嗅ぎ取らせない男は、実に謎めていている。その謎はきっと血の匂いがするだろう。探偵ではない由良間は、血塗れの真実よりも、上辺の愛らしさを愛でた。しかしこれからはそれだけでは済まなくなる。
高遠の孤独が、絶望が、憎しみが、涙となりやがて雨になるだろう。その雨は毒となり、幻想魔術団を殺す。しかしその毒が由良間を殺す前に、雨を止ませることが出来ればいい。死でもって高遠の心に自分を刻むのではなく、生きて共に歩むのだ。
例えそれが、高遠の望む道ではないとしても。その方法のみが、唯一由良間を生き延びらせる術でもあると、彼は気づいていた。
「賭けの内容は、秘密だ」
「そんなんじゃ、賭けになりませんよ」
呆れたように言う高遠に、由良間は微笑みかけた。
「賭けが終わったら、教えてやるよ」
不公平な条件に、高遠は何か言いたげに唇を尖らせるが、やがていつもの事だというように小さくため息をついた。

  • 最終更新:2017-04-04 08:47:50

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