由良高リレー30

眠りというのは生温かい水に似ている。そこからゆるりと浮かび上がり、外気の冷たさに目を覚ました。ベッドは広く、隣に横たわっていた筈の由良間さんの姿は見えない。強いコーヒーの匂いがして、僕は完全に覚醒した。
居間で座っていた。僕が入っていくと顔を上げて、起こしちまったかと呟いた。目の下に隈が出来ている、とても痛ましい、まるで老いた様な、空虚で疲弊していてそれでも整った顔。
僕は終焉を悟った。
「…まだこんな時間。駄目じゃないですか、ちゃんと寝ないと」
「なんか目が冴えちまってよ。悪い夢でも見たかな」
「寝付くまで唄ってあげますから、ベッドに戻りましょう?」
「心配しなくても、これ飲んだら寝るよ」
「そんなに濃いコーヒー飲んで、眠れる訳もないでしょうに」
「はは、ばれたか。…飲むか」
僕はカップを受け取る。くるりと回して、彼の飲み口に口を付けて飲んだ。キスして欲しいなら言えば良いのに、してやろうかと彼が訊く。首を振って、カップを彼に返した。会話が途切れる。彼はらしくもなく、背中を丸めてコーヒーを啜った。そうしてまばたきを幾つか。言葉を探しているのだ。僕は待つだけだ、何も口を出したりしない、最早それは従順に見せる為の安芝居などではなかった。ただそっと天を仰ぐ。世界に罅が入っていた、雨漏りのしそうな罅だった。
「弁護士がな」
「…はい」
「じじいの所の、弁護士がな」
口の中がコーヒーで苦い。それでも時間は流れる、静かすぎるこの部屋にも秒針の音は聞こえている。一刻、一刻、破滅の時へ。
「メールをな、寄越したんだ」
「…そうですか」
「あのSDカードの中身らしい文章が、じじいのパソコンに残ってたらしい。あの老いぼれめ、隠したつもりが元のやつ消し忘れてやんの、間抜けだよな…それが俺宛の手紙だったそうで、全文メールで送られてきた」
「お読みになったんですね」
「その、弁護士に…いや、まあそうだ。そうだ、読んだ」
あぁ、今は彼が選択する番なのだ。見るか見ないか、言うか言わないか、殺すか殺されるか、あるいは捨てるか捨てられるか。そしてこの期に及んで逡順している。それは彼が愚かだからでは、恐らく、ないのだ。僕は黙る。彼に委ね、裁きのラッパを待っていた。
「…高遠」
「はい」
「今、話してもいいか」
「どうぞ」
「大切な話をしたい。だからその…眠いなら、また今度にする」
「それでは眠気覚ましに、コーヒーをもう少しください。どうか口付けで」
強張った頬が、乾いた目が僕を見ていた。その目を逸らさないまま、のろのろとした動作で彼はカップを口元に運んだ。僕も彼を見ながら、テーブルを回り込んで側に立った。顔を近付ける。しなやかな睫毛が小刻みに震えていた。
「ください」
そうして聖別のようなキスを受けた。流れ込むこれはきっと雨水、この苦みは破滅の味。彼は赦しを与える神に似ていた。ここには永遠の眠りがある、生温かい水の様に。飲み干してしまおう。
「…確認したい」
「はい」
囁き声は掠れて落ちる、それはさながら雨の唄。
「あのSDカード、お前は見てないんだよな」
この期に及んで運命はかくも人を試す。僕は選ぶ、選ばずに逃げ出すには僕も彼もあまりに遠くまで来すぎてしまった。ひとつ選んで答えた。
「はい」
あぁ、何故僕は今なお嘘を吐いているのだろう。滑稽だ、陳腐だ、なんて無様な安芝居。従順にでも見えているか?見えているとも、見え透いている、それでもこの従順さは愛だ。否定させるものか。破滅から逃げよう、一瞬でも長くこの愛を。
「信じていいんだな?」
「由良間さんのものを勝手に開ける程、不誠実な従者に見えますか」
「従者はよせ、伴侶とでも名乗りな。…彼女を殺したのは」
「はい」
「あの人形師を殺したのは、お前か」
破滅から逃げよう、この愛を。愛だ、そうあれは愛だった、愛ならば見せびらかしても構わないだろう、ひょっとしたら福音になってくれるかもしれない。ご覧あれかし、これが僕です、真実です。真実の愛です、そう言って下さい、言ってくれなければ泣いてあなたを困らせます。
「そうですよ」
「それは、俺を守る為か」
「はい」
「それは、俺を愛しているからか」
「…はい」
破滅から逃げよう。でも破滅はここにあった。この愛こそが破滅だった。
「そうか」
雨が降った。世界に入った罅の隙間から破滅の雨が漏れ出した、伏せたあなたの瞼から終焉を映す涙が落ちた。この小さく閉じた部屋には雨水があっという間に満ちる。金鳳花、イラクサ、デイジーに蘭、花輪はきっとあなたが被せてくれた冠だった。身の危険を知らぬ者の様に流れに浮かんで昔の歌を、それももう終わり、一枚きりしかない板が笑うのだ。おやすみなさい、飲み干してしまおう。それが出来ぬなら首を吊ろう。雨は孤独を連れてくる。だからあなたは淋しいのだろうか、ほろほろと静かに泣いていた。カタストロフが降り注ぐ舞台の上で、何故泣くのですかと僕は尋ねた。
「嬉しいからだよ」
由良間さんは肖像画の様にぎこちなく笑ってくれた。その微笑み。まるで老いた様な、空虚で疲弊していて、それでもそれは僕の愛した由良間さんだ。
「お前なら、俺が若くも美しくもなくなっても、俺の為に人まで殺してくれるお前なら、お前なら俺を、愛してくれる気がして。永遠の愛に憧れていたのさ、お前がそれをくれると想えたから、だから嬉しい、嬉しいから泣くんだよ」
しゃくり上げそうになって、それを押さえようとして、切れ切れに話す、まるで今際の様に。あなたも僕と同じこの雨に溺れている。もう十分だ、共に沈む約束はもういい。あの板はあなたにあげる。この献身が愛だと知ってくれればそれでいい。僕はコーヒーカップを床に落として、割った。
「それだけですか」
「それだけじゃない。俺を愛してくれるのが、俺が愛したお前でよかったって、それも嬉しい」
「SDカードの内容は、それだけですか」
「あぁ、それだけだ」
あなたは言い切ってくれた。優しい嘘、それがあなたの愛だとでも言うつもりだろう、僕は従順な男だ、それに応えよう。あなたの前にひざまづいて、割れたカップの欠片を手にした。
「あなたに会えて幸せでしたよ。さようなら」
「俺も幸せだった。これからもっと幸せになれると思うのだが、何処へ行くつもりだ」
「何処でもない場所。少なくともあなたと、世間の人々の知らない場所へ行きます。そこへ行って、この欠片で喉を掻き切るつもりです」
「死ななくていいよ。どうせ誰も知らない」
「あなたには知られた」
「じゃあ秘密ごと、一緒に生きよう」
悲しいほど優しい嘘を吐いた指が、フローリングを濡らすコーヒーを掬った。
「破滅もどうやら避けられたしな」
「…コーヒーに何を?」
「これ飲んだら寝るっつったろ。若い頃の睡眠薬…多分、致死量には足りない。でもスキャンダルにはなったろうな」
「床を汚してしまいましたね。お詫びに舐めましょうか」
「積極的に死ににいくのやめようぜ。俺に永遠をくれよ」
あなたは僕の手を取って立たせると、自分の膝の上に座らせた。
「大体、致死量には足りないっつたろ。二人で分け合って飲んだら、きっと何にも起こらないさ…お前こそ何で泣いてんだ」
「泣いていたら…泣いていたら、あなたが唄ってくれるかと思いまして」
コーヒーの香りと嘘と雨水が混じり合う世界で、ゆっくりと夜が明けていった。

  • 最終更新:2017-01-04 17:53:36

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