由良高リレー22

由良間さんは奪う人だった。紳士から社会を、婦人から約束を、宝石から色彩を、僕からは全てを。まるでいつもの奇術、内ポケットから硬貨を1枚くすねる程度の気軽さで、彼は他者の人生を奪った。そして、彼は捨てる人だった。それは彼のコンプレックスだったかも知れない、ある種の強迫観念だったかもしれない、とにかく奪ったものはいずれずたずたに引き裂いて捨てずにはいられない、そんな人だった。社会は灰の下に埋もれ、約束は冒涜され朽ち、色彩は卑しいもののように萎れ……今の所は、僕だけがまだ残っている。由良間さんは何でも壊して捨ててしまう、この絵画をそうした様に、何でも。
「そんなもの直して何になるってんだ」
僕は、由良間さんが破いた絵を直していた。画布を伸ばし、破れ目を合わせ、テープで止める。ついで、はいで、傷を隠して、体裁を整えて、なるべくなるべく元通りに。灰は払い、約束は敬意を持って丁寧に葬り、色彩には水を注いだ。そうして繕ったところで二度と元には戻らないものというのは確かに存在したが、それでも僕は彼に会ってからはずっと、そうやって生きてきた。
「まぁ良いじゃありませんか」
由良間さんは何でも壊して捨ててしまう。その生き方はとても不安定で、僕は由良間さんがいつか由良間さん自身さえも捨ててしまうのではないかと怖かった。だから僕は彼の後ろにぴったり付いて歩き、彼が道端に投げ捨てるあらゆるものを拾い続ける事にした。直せるものは直し、直せないものは埋葬し、多くのものを元の場所に返し、少しのものを懐にしまった。僕の内ポケットは今、そうやって集めたもので膨れ上がっている。いつかこのポケットがいよいよはち切れそうになった時、僕は彼に告白するつもりだ。ほら由良間さん、僕は全部拾ってきたんですよ、貴方が台無しにしたもの全部ひとつひとつ繕ってきたんですよ、こんなに貴方に尽くしてきたんですよ、ねぇ、愛しています。それを聞いた時、彼は僕を捨てるだろうか。願わくば僕のポケットから硬貨を1枚つまみ上げてそれにキスをして欲しい、それだけでもう僕は構わないから、捨てられたって、構わないから。
「これ、何の絵に見えますか」
「何って、じじいの肖像画だろ。趣味悪ぃの」
「署名がありますよ。B.H…心当たりは?」
「B .H…?さぁな、思い付かねえ」
それは醜悪な老人の肖像だった。●●氏だろうか、しかし老資産家が金を積んで描かせたポートレートにしては、些か不自然な迄に醜さが際立っている。骨格や肉付きの醜さではない、内側から滲み出る性質のものであり、精神の醜さだった。僕も人間の醜さはそこそこ目にしてきたが、この肖像画ほどに醜い男が現実に生きていたとはおよそ思えない。異常にも思えるその描写は、老人の意図の臭いがした。笑いながらか、泣きながらか、彼は由良間さんに何かを遺したのだ。あるいは託したのか。他の誰にも奪われない様に大切に隠された贈り物、その箱へ至る廊下を探すための、アリアドネの糸の臭いがした。
「醜い肖像…老人…由良間さん…B .H…」
「あんまり根詰めて悩みなさんな。可愛いお顔に顰めっ面は似合わねえぞ」
「可愛い顔と顰めっ面…美と知、両立はしないもの?」
あぁ、たとえば英文学だったらどうだろうか。
「B .H…バジル・ホールワード」
そうだ。よく見ればこの肖像画は由良間さんにどこか似ている。土気色の肌にも崩れた口元にも、濁った瞳にも貴公子らしい華やかさの面影はないが、ただその危うさは彼を思わせた。美しさと醜さ、肉体と魂、美徳と悪徳、失われゆくものと訪れくるもの。相反するものの間で彷徨い、ともすると道を誤ってしまいそうな、奪うべきでないものを奪い、捨ててはならないものを捨ててしまいそうな、そんな危うさ。
僕は理解した。これはかの有名な、ドリアン・グレイの肖像なのだ。
「バジル?誰だそれ、有名な画家か」
「有名な小説に出てくる画家です。ねぇ由良間さん、この館に屋根裏部屋はありますか」

「教えておくれよ高遠、俺の可愛いお利口さん、どうして屋根裏なんだ?」
「ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』は御存知ですか」
「あぁ…題名くらいは。何だっけ、年を取らない美青年と、彼の代わりに老け続ける肖像画の話だろ」
「まぁそんな所です。正確に言えば、肖像が刻むのは彼の年齢のみならず、悪業でもありましたが。その肖像画を描いたのがB.H、バジル・ホールワードであり」
細く薄暗い階段を上り抜け、扉を開く。
「その絵は屋根裏部屋に隠されていたんですよ」
そこは思いの外に明るく、一瞬だけ目が眩んだ。そういえば屋根裏部屋は子供部屋でもあったのだ。無垢と汚辱、栄光と凋落、始まりと終わり。相反するもの達はここでも渦を巻いている、そこの大窓から差し込んでいる陽光の様に交錯し、絡み合い、伸びて壁に落ちて。その日に焼けた壁に、肖像画と同じサイズの痕が残っていた。
「ビンゴみてえだな」
「きっと隠し部屋か何かがありますよ」
僕は床を調べる。
「そうだな。だが、一体何が隠してあるのやら」
「それはまだ僕にも分かりません。ですが、きっと由良間さんを救うものだと思います」
彼は天井を調べる。
「何故そう思う?」
「ではここでクイズのお時間です」
二人で壁を調べる。隠し扉らしき切れ込みが見付かったが、鍵穴がなかった。
「ドリアンの肖像画、青年から老人へと変貌してゆく不思議な絵画、あの絵の正体は何だったでしょうか?」
「正体?どういう事だ」
「肖像画は何を象徴していたか、という事ですよ。ちゃんと作中で明かされている」
「そのクイズ、正解したら何をくれる?」
「キスしてあげますよ」
由良間さんは鼻で笑って、後ろから近付き僕の唇を塞いだ。彼はこんなに気軽に唾液を捨てる。嗚呼、だからこそ僕が拾わなくてはならないのだ。唾を吐く彼はお行儀が悪い、だから僕は地べたに身を屈めて、由良間さんの吐いた唾を綺麗に舐めていく、そうやって生きるのだ。由良間さんが社交界で嫌われない様に、彼の不作法の後始末を。そして僕はこの生き方を心底気に入っていた。
「…正解は?」
「まったく…貴方がちょっと甘い声で囁けば、僕なんて容易く口を割ると思ったら大当たりなんですからね。『良心』ですよ」
「ありがとう、可愛いお利口さん」
小鳥が啄ばむように軽いキスを繰り返す。唇に3回、4回、頬、瞼、こめかみ。お安い褒美だ、けれど僕に取っては渇きの中で待ち焦がれた水の様に甘い、何よりも求めたものだった。
「悪事を繰り返すたびに汚れて醜くなっていくもの、しかし表面上の美しさとはむしろ対極にあるもの。『そうとも、それは良心だったのだ』と、そう語られています」
彼は僕の背中越しに手を伸ばした。そこには本棚があり、英文学を中心とする幾許かの本が収められており、シェイクスピアがあり、ブロンテがあり、そしてまさしくワイルドがあった。問題の本を彼は手に取り、ぱらぱらと捲る。
「『そうとも、それは良心だったのだ。そんなものは壊してしまおう』」
「良く見付けられましたね」
「だって、物語の鍵になる不思議な絵の正体判明シーンだろ。って事はかなり後ろの方だって、俺でも分かる」
「その通りです。ドリアンはそれが自らの良心であったと知り、絵にナイフを突き立てる。まるで貴方がそうした様に」
その一文から小説の終わりまではごく僅かだ。由良間さんはその短い文章に目を通し、読み終えて本を閉じると、思い切り顔を顰めた。
「なんだこの本。胸糞悪ぃ」
「お気に召しませんでしたか」
「何で絵を刺したら自分が死ぬんだよ、でもって何でいきなり皺くちゃのジジイになっちまうんだよ。訳分かんねえ」
「まぁまぁ由良間さん、最初から全部読めばきっと良さが分かりますよ」
「全部なんて読まねえよ。こんなのが名作だなんて、俺は認めねえ」
「…きっと●●氏も、認めたくなかったんでしょうね」
ドリアン・グレイは純粋な青年だった。しかし彼はあまりに美しかった。その美しさは、唯美論者のヘンリー・ウォットン卿の目に留まってしまった。ヘンリーに唆されたドリアンは表面上の美、今この瞬間の快楽を至上命題として生きる様になった。彼は堕落し、後ろ暗い楽しみに耽り、遂には親友バジルをも殺めてしまった。
「良心を破壊したドリアンに訪れたものは、醜く孤独な死でした。●●氏は、由良間さんが同じ結末を辿る事を恐れたのだと思います」
「まさかお前、あの絵が俺の良心だとでも?それを破いちまった俺には、あの本の様に無様な死が待っているとでも?止めてくれよ、怖気が走る」
「もちろん全て僕の推測です。ですがほら、見て下さい」
本棚の奥、先程由良間さんが『ドリアン・グレイの肖像』を引き抜いた場所に、小さな鍵穴があった。肖像画から出てきた鍵を差し込むとぴったり合い、なめらかに回り、鈍い音を立てた。
「この鍵は、由良間さんが壊したあの絵に隠してあったものです。絵を破壊しない限り、見付かる事はなかったでしょう。つまり●●氏は、あの肖像画が破壊される可能性を考慮に入れていた事になります。しかしながら貴方が醜悪極まる姿になり果て、暗い屋根裏などで死ぬ事は、●●氏に取って最も望まない未来であり、認めたくない結末だったのではないでしょうか」
「…だからこそ、『俺を救うもの』なのか。恵みの雨でも降るってか」
隠し扉が開き、そこから一体の人形が姿を現す。丁寧で精緻な造りをしたビスクドールだったが、さほど美しくはない。作り手の腕が悪いのではなく、平凡な容姿の人物を忠実に再現したものの様で、華麗さの代わりに知性を感じさせる表情をしていた。黒い髪。これはドリアンではない。
「そうそう、言い忘れていましたね。バジルもまた、屋根裏部屋で死んだんですよ」
「ったく、ホント悪趣味な…死因は」
「ナイフによる刺殺です」
「りょーかい」
由良間さんは溜め息ひとつ吐くと、ナイフを取り出してくるりと回し、バジル人形を破壊した。由良間さんは何でも壊して捨ててしまう、でも今回ばかりは僕も後始末をさせては貰えなさそうだ。粉々に散ったビスクは煌めく雪の様で美しい。その雪に何かが埋もれていた。
「お、何か出てきた。そうか、陶器人形って中は空洞だもんな」
「由良間さんは触らないで下さい。怪我でもしたら大変ですから」
拾い上げてみるとそれは二つあり、ひとつはSDカード、もう一つは小さな石だった。石の方には見覚えがある。人形に対してちょうど心臓ほどの大きさの、それは小さな骨の欠片だった。

  • 最終更新:2016-09-25 16:41:33

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